潜在意識とは何か。しらべて、5つのページで、5つのちがう説明を読んだ人。
意味はなんとなくわかるのに、人に説明しようとすると、つまる人。
僕は、後者でした。
先に結論を書きます。潜在意識とは、意識の閾(しきい)の下ではたらいていて、本人が自覚できない心のはたらきにつけた名前です。
心の中にいるだれかの名前では、ないです。
その読み方をすると、辞書の意味からずれます。
そして1912年には、このことばはもう日本語の中にありました。順番に書きます。
辞書は「活動している」と「自覚されない」の2つで書いている
まず、辞書をひらきます。
デジタル大辞泉は、精神分析などで、活動はしているが自覚されない意識、と書いていました。
精選版 日本国語大辞典は、もう少し長い。
自覚されることなく活動する意識。意識内での強い禁止によって、自覚面に現われることができない意識。
そして、同義語がそえてあります。
「半意識」。
ぜんぶでもないし、別人格でもない。半分、という言いかたです。
2つの辞書に共通していたのは、たった2つです。活動している。自覚されない。
ここから先の話は、ぜんぶ、この2つの中に入ります。
このことばには、1912年という出典がある
精選版 日本国語大辞典は、語釈のあとに〔 〕で出典を添えています。
そこにあがっていたのが、これでした。
〔英独仏和哲学字彙(1912)〕
ひとつ、断っておきます。
この括弧は、類語の「半意識」のすぐ後ろに置かれています。潜在意識と半意識の、どちらを立てた出典なのか。そこまでは、この表示では決められません。
国立国会図書館の書誌で、本のほうをたしかめました。『英獨佛和哲學字彙』。共著は井上哲次郎・元良勇次郎・中島力造。1912年1月に、丸善から出ています。
哲学と心理学のことばを、英・独・仏・和の4つでならべた本です。
マーフィーの邦訳が出るのが、1968年。その56年前になります。
邦訳がひろめたことと、95%という数字に一次出典がないことは、潜在意識と顕在意識の違いに書きました。
ここでは、その手前を見ます。
つまり、この語をタイトルにした本が売れるより、ずっと前から日本語の中にありました。
もうひとつ、正直に書いておきます。
この字彙の本文そのものには、たどり着けていません。全文検索では書名までしか出てこず、本文の画像を開けませんでした。
たしかめられたのは、2つです。辞書がこの書を出典にあげていること。その書が1912年1月に、丸善から出ていること。
辞書が語をのせているのは、その年までに語があった、という証拠です。その年に入った、という証拠ではないです。
1912年より前に、この語がどこまで使われていたかは、まだ特定できていません。
1918年の小説に、「意識の閾」とセットで出てくる
辞書は、初出の実例もあげています。
有島武郎『生れ出づる悩み』、1918年。
孫引きにしたくなかったので、本文をひらきました。青空文庫にあります。
作中で「潜在意識」が出てくるのは、1か所だけでした。
四年五年という歳月は君の記憶を私の心からきれいにぬぐい取ってしまおうとしていたのだ。君はだんだん私の意識の閾を踏み越えて、潜在意識の奥底に隠れてしまおうとしていたのだ。
読んでほしいのは、まん中です。
「意識の閾を踏み越えて」、そのあとに「潜在意識の奥底」。
上下の位置が、この一文に、そのまま書いてあります。
そして「閾」は、文学のかざりではないです。心理学の用語なんですよね。
デジタル大辞泉の語義は、こうでした。ある感覚や、同種の刺激のちがいを、感知できるか否かの、さかい目。また、その刺激量。
刺激量、と書いてある。つまり、はかれる線だ、ということです。
目には見えない線です。
派生語も、ならんでいます。閾下。識閾。
潜在意識という日本語は、この、はかれる線の下がわを指す語として辞書に載っています。
「潜在」という日本語は、英語の2つをまたいでいる
では、いまの学術は、どこに線をひいているのか。
まず、subconscious という英語は、いまも専門語として使われています。
脳科学辞典という、日本の学会がつくっている事典があります。
その「無意識」の項目は、英訳の欄に unconscious と subconscious を、ならべて置いていました。
日本語がわだけの俗語では、ないです。
ただし、日本語の「潜在」は、もうひとつ別の英語もかぶっています。
implicit です。潜在記憶、潜在学習の「潜在」が、そちらになります。
1995年の総説が、この implicit を一行で書いています。潜在的な認知の見わけかたは、過去の経験が、本人が内省では知りえないかたちで、判断に影響していることだ、と。
英語では、別のことば。日本語にすると、どちらも「潜在」になる。
だから日本語の「潜在意識」には、2つが重なっています。
閾の下、という位置の話。そして、内省では知りえない、というつながりの話。
自覚がないだけでは、たりない。
過去の経験と、いまの判断が、本人の知らないところでつながっている。そこまできて、ようやく「潜在」です。
日本大百科全書も、近い線をひいています。潜在意識は、状況しだいで意識化されうるもの。無意識は、絶対に意識化されないもの。
1912年の字彙も、1918年の小説も、指しているのは位置だけです。上か、下か。
ただ、このことばのかたちは「意識の下に、もうひとりいる」とも読めます。フロイトがその読みを嫌って subconscious を捨てたことは、潜在意識と無意識の違いに書きました。
今日の話をまとめると
潜在意識とは、自覚されないまま活動している意識のこと。辞書の言いかたは、それだけです。
辞書がこの語に添えている出典は、1912年の哲学用語辞典でした。マーフィーの邦訳でひろまる、56年前です。
1918年の小説では、「意識の閾」と、セットで使われていました。
閾は、感知できるかどうかの、さかい目のこと。はかれる線です。
そこが、入口です。
だから 潜在意識は、心の中にいるだれかの名前ではなく、閾の下で起きていることにつけた名前です。
辞書の語釈は、どれも「意識」や「心的現象」の話で、だれかがいるとは書いていません。
1912年より前は、まだ、たどれていません。
そこは、白いままです。
今夜、3分だけ使ってください。今日やったことをひとつ書いて、その横に、なぜそうしたかを書く。
書けたほうは、意識の側です。なぜそうしたかを言えなかったほうが、閾の下になります。
僕がなぜ、ここまで出どころをたどるのかは、プロフィールに置いてあります。





